長野県松本市。
まだ雪の名残を抱く山の稜線を抜け、
梓は古い地図を頼りに一台のタクシーを降りた。
眼下には町が霞み、
足元には風に削られた坂道が続いている。
目的地は、今は使われていない小さな録音スタジオ――
その名も「Sound Field MINORU」。
木造二階建ての建物は、
長年の風雨で外壁の塗料が剥がれ、
看板の文字もかすれていた。
「……ここが、風間さんが最後に訪れた場所。」
梓は静かに呟き、扉に手をかけた。
中は薄暗く、
ほこりの匂いと古い木の匂いが混ざっている。
床の上には劣化したケーブルや、
マイクスタンドの残骸が散らばっていた。
机の上には、錆びたリールテープと一枚のメモ。
そこには震えるような字でこう書かれていた。
『残響がすべてを語る。
音は消えた後に、真実を残す。
――風間信一』
梓はメモを握りしめた。
「……やっぱり、ここにも。」
その声に応えるように、
スタジオの奥から物音がした。
薄暗い照明の下、ひとりの青年が現れた。
「……あなたが、宮本梓さん?」
黒縁の眼鏡をかけた、まだ二十代半ばほどの青年。
彼の名は 春木蓮(はるき れん)。
「僕はこのスタジオの管理を任されています。
祖父が、かつて風間先生と一緒に研究していたんです。」
梓は驚きとともに息をのんだ。
「あなたの祖父って……春木稔さんですか? “Sound Field MINORU”の。」
蓮は小さく頷いた。
「はい。でも彼ももう、亡くなりました。
残っているのは、この古い機材と――未完成の音源だけです。」
蓮は棚の奥から銀色のケースを取り出した。
「これが“風間先生の最後の録音”だと聞いています。
でも、不思議なんです。途中までしか音が入っていないんですよ。」
ケースを開けると、中にはラベルもないカセットテープ。
梓はそのラベルのない“沈黙の記録”を見つめながら、
確信した。
――ここには、まだ“続き”がある。
外では、山風が木々を揺らし、
遠くの町まで響くような低い音を立てていた。
その音が、まるで残響そのもののように、
スタジオの壁を伝って微かに鳴っていた。
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紙袋の行方
第1週 『見えない鍵』
第2週 『名前のない約束』
第3週 『宿帳の余白』
第4週 『買い取ってない品』
第5週 『願いは誰のもの』
第6週 『二人で書いた誓い』
第7週 『割れた陶片の先』
第8週 『夕立ちの残響』
第9週 『消えた宛名』
第10週 『影送りの窓』
第11週 『記憶を映す硝子』
第12週 『消えた宛先の灯』
第13週 『風の便り』
第14週 『声を継ぐもの』
第15週 『記録の余白』
第16週 『灯を継ぐ人』
第17週 『約束の残響』


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