その日、閉店後の店内に、静かな時間が流れていた。
亜希は帳簿を閉じ、電卓を片づけながら、ふと棚の方へ目をやった。
例の小皿は、誰にも触れられることなく、そっとそこにある。
「……売らない棚も、悪くないですね」
そうつぶやくと、後ろから柴田の声がした。
「志乃、来たのか」
「はい。自分で名乗られました」
「そうか……」
しばしの沈黙。
「彼女、あの皿を“返した”って言ってました」
「そうだろうな。あれは、本当は“あげた”つもりじゃなかった」
亜希は振り返った。
「じゃあ、なぜ渡したんですか?」
柴田は、店の奥の灯りを消しながら、答えた。
「多分、“区切り”が欲しかったんだ。関係が続くより、品を通して終わらせたほうが、優しかったような気がして」
「……でも、彼女はそうは思っていなかったようです」
「わかってる。ずっと、何かを謝りそびれたままだった」
柴田はレジ横の古い引き出しから、黄ばんだメモ帳を取り出した。
そこには、数年前の走り書きのようなメモがあった。
「この皿は、贈り物ではありません。
渡したのは、伝える言葉が見つからなかったからです」
日付も署名もない。
でも、その筆跡は、たしかに柴田のものだった。
「書いたけど、渡せなかった。情けない話だけどな」
亜希は、そのメモを見つめながら言った。
「でも……伝わったんじゃないですか。
彼女はもう、“記録されないままの存在”じゃない」
柴田は、少し目を伏せた。
「この店って、たまに“物のふりをした手紙”が届くことがあるんだ」
「手紙……?」
「言葉にできなかったこと、伝えそびれたこと、渡せなかった気持ち。
そんなものが、皿や湯呑みや時計にすり替わって、ふっと棚に置かれてる」
そしてこう続けた。
「そのとき、それをちゃんと受け取れる人がいれば、記録には残らなくても、“記憶”には残る」
“忘れられた依頼主”など、本当は誰もいないのだ。
気づく人がいれば、それで十分。
帰り際、亜希はもう一度、小皿を見つめた。
ほんのわずかに光る金の縁が、店内の灯りに溶け込んで、まるで口をつぐんだ笑顔のように見えた。
それは、語られないまま交わされた、ふたりの“最後のやりとり”だった。
『買い取ってない品』fin.
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