午後2時を回ったころ、店の戸が小さく鳴った。
入ってきたのは、落ち着いた雰囲気の30代の女性だった。
黒のタートルネックにベージュのスカート、手には何も持っていない。
ただ、視線は迷うことなくまっすぐ陶器棚へ向かっていった。
そして、迷いなく、例の小皿の前で立ち止まった。
「……これ、まだ売っていないんですね」
その声に、レジにいた亜希は思わず背筋を伸ばした。
「はい。ですが……このお皿、実は買い取り記録がなくて。出所がはっきりしていないんです」
女性は微笑み、首を横に振った。
「それは“売ってはいけない皿”だからです。たぶん、本人もわかっていて、置いていったんだと思います」
「え……あの、失礼ですが……もしかして、“桐山志乃さん”のご友人か何かで?」
その名前を出すと、女性の目がふっと優しくなった。
「……本人です」
亜希の呼吸が止まりかけた。
「えっ……!じゃあ、あの貼り紙を……」
「はい。ご迷惑をおかけしました」
亜希が戸惑いながらも続ける。
「でも、どうして名前を伏せて返したんですか? わざわざ店に戻ってくるのに」
志乃は静かに答えた。
「自分の気持ちに、最後の形を与えたかっただけなんです」
「形……ですか?」
「“贈られた”って受け取ったふりをして、実はずっと苦しかった。あの頃の私は、自分の存在すら値段をつけられてるような気がしていたんです」
志乃は皿を見つめながら続けた。
「でもね、品物っておもしろいんです。ひとつのものに、いくつもの感情が刻まれていく。あれを返すことで、ようやく自分の感情に“売値”をつけずにすんだ気がしたんです」
売るための品じゃない。
買い取られたものじゃない。
ただ、気持ちだけを乗せた品。
それをようやく、戻すことができたのだと。
「このお皿は、店に残していただけませんか? 私ではなく、“あの頃の私”の痕跡として」
亜希は深くうなずいた。
「もちろんです。価格をつけず、記録にも残さず、ここに置いておきます」
志乃はその言葉に小さく頭を下げ、静かに店を後にした。
戸が閉まったあと、皿のそばにふと目をやると、
志乃の指でそっと撫でられたような痕が、光の加減でふっと浮かび上がった。
その皿は今、ようやく“売られない理由”を得たように見えた。
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紙袋の行方
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