潮風に混じって、かすかに塩の匂いがした。
旧郵便局舎からほど近い海沿いのプレハブ小屋――そこが、かつて風間信一が使っていた臨時の録音スタジオだった。
木製の扉を開けると、古びたマイクとリールデッキが今も残っている。
「ここで録音してたのね……」
澪が息をのむ。
部屋の中央には、一脚の椅子とマイクが向かい合って置かれていた。
窓からは波の音と風が入り込み、部屋全体が呼吸しているようだった。
梓はバッグから祖母の硝子片を取り出した。
それを机の上にそっと置くと、外の光が反射してマイクの金属面に淡い色を映した。
「これが、祖母が持っていた硝子。札幌の教会のものです。」
伊東は深く頷いた。
「彼が“声を録る旅”を始めたのは、その教会での修復作業の後だ。
“硝子が光を映すように、声も想いを映す”――彼はそう言っていたよ。」
澪がリールデッキの電源を入れる。
モーターが低く唸りを上げ、テープがゆっくりと回り始めた。
最初はノイズだけ。
次に、波の音。
そして、風間信一の声が聞こえた。
『ここは、石巻。
この風の先に、いつか誰かが耳を傾けてくれるなら……
どうか、この声を継いでほしい。
硝子が割れても、光は通う。
声が途切れても、想いは残る。』
梓は胸の奥が熱くなるのを感じた。
風間の声のすぐ後ろで、別の小さな音がした。
ガラスを置くような――澪が息を呑む。
「これ……今の、硝子の音?」
「いいえ……たぶん、あの人が最後に録った“あの硝子”の音です。」
風間が旅の最後に触れた硝子。
祖母が手元に残した硝子。
二つの音が、時を超えて同じ響きを奏でていた。
風が窓を揺らし、海の匂いが部屋に流れ込む。
マイクの前で光る硝子の破片が、まるで微かな声を放っているように見えた。
梓は囁くように呟いた。
「……おばあちゃん、あなたの声はまだ届いてる。」
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紙袋の行方
第1週 『見えない鍵』
第2週 『名前のない約束』
第3週 『宿帳の余白』
第4週 『買い取ってない品』
第5週 『願いは誰のもの』
第6週 『二人で書いた誓い』
第7週 『割れた陶片の先』
第8週 『夕立ちの残響』
第9週 『消えた宛名』
第10週 『影送りの窓』
第11週 『記憶を映す硝子』
第12週 『消えた宛先の灯』
第13週 『風の便り』
第14週『声を継ぐもの』


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