弘前駅から徒歩15分ほど。
商店街の外れにある、小さな学習塾「なるみ塾」の2階教室。
窓の外には、りんご畑と遠くの山並み。春が近づいてもまだ風は冷たく、空気には凛とした静けさが漂っていた。
**佐伯真帆(さえきまほ)**は、午後5時ちょうどに教室へ入ってきた。
今日の最初の授業は中学2年の英語クラス。まだ生徒は誰もいない。
ホワイトボードの前に立ち、出席簿を確認していたとき――教室のすみにあるロッカーの前で、何かが揺れた。
風、ではない。窓は閉まっている。
真帆がそっと近づいて見ると、それはランドセルにつけられた小さなお守りだった。
紺色の布に白糸で「必勝」と刺繍されている。だが、見覚えがあるのはその文字ではなかった。
裏側に、小さな金色の花の刺繍がしてある。
そのデザインは、10年前に自分がある生徒のために手作りで付け加えたものだった。
「……まさか」
声に出すと、驚きと同時に、なぜか指先が冷たくなった。
そのとき、ドアが開いて、ひとりの少年が入ってきた。
「こんにちはー」
明るい声の主は、岡部拓真(たくま)。
成績優秀で礼儀正しい、真帆の英語クラスの常連だった。
「これ、君の?」
真帆がランドセルを指すと、拓真は頷いて言った。
「はい。お母さんが、知り合いの先生からもらったって。中に願い事が書いてあるらしいんですけど、ぼく開けてないです。開けると効き目がなくなるって」
真帆は何も言えなかった。
あの刺繍のついたお守りは、10年前、ある**“誓い”を込めて誰かに渡したはず**だった。
それがなぜ、いまこの少年のランドセルについているのか。
まだ、何も分からない。けれど、胸の奥がじわりと痛んだ。
それは、忘れていたはずの名前のない約束が、静かにほどけ始めた音だった。
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紙袋の行方
第1週 『見えない鍵』
第2週 『名前のない約束』


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