午後、洗濯物を干していると、階下から物音がした。
アパートの1階には一人暮らしの主婦が住んでいると、大家の沢口さんから聞いていた。名前は中川鈴。まだ若いが、夫は単身赴任で不在らしい。
ちょうど物干し場の下で、背の低い女性が洗濯かごを抱えているのが見えた。色のないグレーのカーディガン。顔立ちは整っていたが、どこか神経質そうに見える。
「こんにちは。昨日、上に引っ越してきた遠山です」
軽く声をかけると、女性はピクリと肩を揺らし、顔を上げた。
「あ……あの、こんにちは……」
それだけで、すぐに視線を逸らされた。
無理に話すのも悪いかと、美和は会釈だけして引っ込もうとしたが、ふと気になって聞いた。
「昨日の夜、誰かが階段の下に紙袋を置いたみたいなんです。……鈴さん、何かご存じですか?」
女性の顔に、かすかな動揺が走った。唇をきゅっと引き結ぶと、数秒沈黙してから答えた。
「いいえ……私、夜は早く寝ているので」
言い終わると、そそくさと洗濯かごを持って部屋へ戻っていった。
その後ろ姿が、不自然なほど早かった。
その夜、美和は階段の音に敏感になっていた。
午後8時を過ぎた頃、また「コトン」という物音が響いた。
息を殺してドアを開けると――今度は、何もなかった。
しかし、階段の下のコンクリートに、かすかに濡れた足跡のような痕が残っていた。
誰かが来て、何も置かずに去ったのか。
それとも、ただの雨の跡か。
いや――
美和は胸の内で否定した。
この部屋には、何かが“届けられ続けている”。
それは物ではなく、何かもっと曖昧で、記憶に似たもの。
そして、届けているのは――まだ誰にも顔を見せていない“誰か”だ。
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紙袋の行方
第1週 『見えない鍵』


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