第7週『割れた陶片の先』第2話 ― 形の記憶 ―

第7週『割れた陶片の先』

朝いちばんの教室は、電気窯の余熱と水で湿った土の匂いが混じる。
南雲奈央はテーブルの中央に、昨日の陶片をそっと置いた。白地に青の唐草。光の角度で模様が揺れる。断面は三角形に近い。縁の反り、厚み、見込みの角度――職業柄、指先が自動で寸法を拾っていく。

「先生、それ何ですか?」
出勤早々、川瀬千裕が鼻歌まじりで近づいてきた。二十九歳、器用で、口も器用だ。
「骨董市で拾った欠片。教材に……なるかは、まだわからない」
「かわいい。唐草って、古いのに今っぽいですよね。裏は?」
奈央は少しためらってから、裏面を見せる。古新聞が薄く貼られている。角に「道」の字の一部。
「新聞、北海道って書いてます? マジ?」
「うん。昭和六十二年の北海道新聞。どうして香川に、って思うよね」
「へぇ、旅してきた欠片かあ。ロマンじゃん」

奈央は笑って流し台へ向かい、作業用の桶に水を張る。陶片の曲線が脳裏で膨らみ、欠けている部分が勝手に補われていく。
――この反り、掌の記憶が知っている。
子どもの手でも抱えられる、小ぶりな飯椀。土はやや粗く、焼きが甘い。初めての作品の手つき。
まぶたの裏に、兄の指が浮かんだ。節の目立つ不器用な指。なのに、土を扱うときだけは、やわらかい。

「先生?」
千裕の声が、思考を戻す。
「ごめん。少し、昔のを思い出してた」
「“昔の”って、彼氏?」
「ちがう。兄」
「え、先生にお兄さん?」
「いるよ。高松で骨董をやってる。……ずっと会ってないけど」

千裕は陶片に頬を寄せ、にやりと笑う。
「じゃ、これ、兄妹再会のアイテムじゃん。見せに行こうよ」
「やめとく。私が行くと、あの人、黙っちゃうから」
「黙ってても見るでしょ、職業柄。しかもこの欠片、絶対なんか持ってる顔してる」

千裕は椅子に座り、ノートを開いた。「今日の課題、“形を写す”。これ、先生が作って見せてよ」
「私が?」
「うん。先生が“思い出してる形”を、粘土で再現してほしい。見たい」
挑発めいた口ぶりに、奈央は肩をすくめた。けれど、悪くない。形を外に出せば、頭の中の霧が晴れることはある。

奈央は粘土をちぎり、菊練りして、ろくろの中心に据える。足元のペダルを踏み、回転が安定したところで親指を落とす。
土の抵抗が、指の腹に乗る。ひと息で底を広げ、壁を立ち上げる。左の手刀で外側を支え、右手で内側から押し上げる。
――厚みはこれくらい。縁は薄く、でも脆くはない。
縁に親指をかけ、そっと外へ反らす。「返し」をつけると、目の端に陶片の唐草がちらつく。

「先生、めっちゃ早い……」
「習い事のデモだから」
冗談めかして答えながら、奈央は回転を落とし、指先で形を止めた。小ぶりの飯椀が、そこに立っている。
正面――と勝手に思える一点に、唐草を置きたくなる衝動が確かにあった。筆はない。けれど、形の流れでわかる。
器は、模様を呼ぶ。

「これ、見覚えあります?」
千裕の問いは直球だった。
奈央は少し間を置いてから頷く。「子どもの頃、兄と作った茶碗に似てる。兄が初めて形にしたやつ。……ある日、割れた」
「先生が割った?」
「覚えてない。気づいたら割れてて、兄が叱られてた。私はその場にいたのに、何も言わなかった。……その日のこと、どうしても思い出せない」

沈黙。窓の外で、港のクレーンがゆっくりと腕を振る。
千裕はノートにさらさらと何かを書き、顔を上げた。
「じゃ、これ焼きましょう。新聞は剥がさないの?」
奈央は陶片を持ち上げ、裏面の古新聞を親指で撫でた。紙は薄く、糊の縁がかさついている。
「怖い。剥がしたら、何かが欠ける気がする」
「でも、見なかったら、何も増えないよ?」
小さな間。そのあとで奈央は、新聞の端に爪を入れた。
糊が、細いガラスを剝がすみたいに鳴る。紙がゆっくり持ち上がり、茶色い糊が糸を引いた。

途中でやめた。
視界に、丸い墨の跡が現れたからだ。紙の下に、さらに薄い紙片が貼られている。貼り紙の角が、かすかにめくれ、鉛筆の「な」の曲線が覗く。
千裕が息を呑む。「……手紙?」
「わからない。……今日はここまで」

午後のクラスが始まると、奈央は生徒に各自の成形を指示し、自分は釉見本の整理にとりかかった。
けれど、意識の半分は陶片に残っている。新聞の「道」、筆の「な」。
言葉の断片は、形の断片に似ている。全体が見えるまで、勝手に先走る。思い込みは、形を少しずつ歪ませる。

夕方、クラスが終わると、千裕が片づけを手伝いながら言った。
「先生、さっきの、兄さんには言わないの?」
「……言うべきなのかもね」
「うん。てか、会いに行こ。骨董市のじいちゃん、南雲さんの店の場所知ってると思う」
奈央は一度だけ首を振ったが、すぐにため息に変えた。
「明日、午前中だけなら」

夜。教室の灯りを落とし、陶片を布に包む。
包む手がふと止まった。布の端を結びながら、奈央は小さく口にする。
「昭和六十二年。北海道」
その年、その場所。自分とは何の関わりもないはずの記号が、土の手触りみたいに肌に残る。
形は手が覚える。記憶も、体が覚える。
――あの日、割れる音の前に、何があった?

睡眠は浅かった。
夢のなかで、唐草が渦を巻き、新聞の活字が水に滲み、兄の指が土を包む。
割れる音の直前、誰かの息を飲む気配がして、そこで目が覚めた。

翌朝、海は穏やかだった。
奈央は布包みを手に、教室の鍵をかける。
向かう先は、十年以上、選ばなかった道だ。
港の風が背を押す。
欠片が、音を立てずに、ポケットの中で重さを主張した。
形は、戻ろうとしている。

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紙袋の行方

第1週 『見えない鍵』

第2週 『名前のない約束』

第3週 『宿帳の余白』

第4週 『買い取ってない品』

第5週 『願いは誰のもの』

第6週 『二人で書いた誓い』

第7週 『割れた陶片の先』

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