翌朝、柳川は早くも夏の陽射しが戻っていた。
昨日の夕立は、町の空気を一瞬冷やしただけで、湿気を余計に増やしたように思える。
長谷川梢は図書館のカウンターに座り、昨日持ち帰ったカセットテープを引き出しの奥にしまった。
開館時間まで、まだ少しある。
コーヒーを啜りながら、あの声を思い出す。
――ずっと、好きだった。
そして「小樽」という言葉。
思い出そうとしても、声の主も、小樽という土地とのつながりも、霞がかかったままだ。
そのとき、扉が開き、朋美が顔を出した。
「おはよ、梢。ちょっといい?」
高校時代からの友人で、今は商店街で喫茶店を営んでいる。
差し出された紙袋には、焼きたてのマフィンが入っていた。
「朝イチで焼いたから、まだ温かいよ。そうだ、昨日の夕立、覚えてる?」
「もちろん。図書館の屋根、かなり音がしてた」
「なんか、高校のときの文化祭前日みたいだったなーって」
その言葉に、梢は一瞬手を止めた。
高校2年の夏。放送部は文化祭の開会アナウンスを任されていた。
その前日の午後、突然の夕立が校舎を襲い、部室の窓から雨が吹き込み、録音機材やテープがずぶ濡れになった。
慌てて布で拭き、扇風機を回して乾かそうとしたが、いくつかのテープは再生できなくなった。
あの時の匂い――湿った絨毯、錆びかけたマイク、冷房の効かない室内。
確か、誰かが一人、ずぶ濡れのまま走って部室を出て行った気がする。
けれど、それが誰だったのか、思い出せない。
「……どうした?」朋美が覗き込む。
「ねぇ、あのとき、夕立の後に部室から走って出てった人、覚えてる?」
「うーん……あたしは違う部だったからなぁ。でも、放送部の男子が一人、傘も差さずに帰ったって噂はあったよ」
「男子?」
「そうそう。確か、森本……なんとかくんじゃなかった?」
森本翔。
名前を聞いた瞬間、梢の胸が小さく跳ねた。
放送部の同級生で、卒業後は東京に行ったと聞いている。
背が高く、物静かで、でもマイクの前だと声が少し低くなる人だった。
図書館の時計が開館時刻を告げた。
カウンターの向こうで、最初の来館者が入ってくる。
梢は笑顔を作って迎えながら、心のどこかで決意していた。
――あの声のこと、翔に確かめたい。
でも、十年以上も会っていない彼が、今どこにいるのかもわからない。
机の引き出しにしまったカセットテープが、そこにあるだけで重く感じられた。
夕立の残響は、まだ胸の奥で鳴り止まない。
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紙袋の行方
第1週 『見えない鍵』
第2週 『名前のない約束』
第3週 『宿帳の余白』
第4週 『買い取ってない品』
第5週 『願いは誰のもの』
第6週 『二人で書いた誓い』
第7週 『割れた陶片の先』
第8週 『夕立ちの残響』


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