週末、梢は珍しく午後からの勤務だった。
午前中の時間を持て余し、川沿いを歩くうちに、柳川名物の川下り乗り場の前で足が止まった。
夏休みとあって観光客が多いが、川面を渡る風が心地よく、乗船案内の声に誘われるまま切符を買ってしまう。
舟はゆっくりと掘割を進む。
白壁の蔵や柳の並木が流れていき、水面に映る緑が揺れている。
櫓を操る船頭は六十代半ばほど、陽に焼けた腕と、よく通る声をしていた。
観光案内を交えながら、時折、昔話も挟む。
「この辺りな、昔はもっと学校が近くてねぇ。雨の日なんか、校舎の窓から川まで傘なしで走る子もおった」
梢は反射的に顔を上げた。
「それって……どの学校ですか?」
「西中やったかな。ほら、十数年前の夏、夕立で校舎がずぶ濡れになった日があったやろ。あんとき、一人の生徒が傘も差さずに飛び出してきたのを、ここから見たんよ」
「……男の子、ですか?」
「そうそう。長身で、部活の荷物らしいカバンを抱えてな」
船頭は笑い、「青春やなぁ」とつぶやいた。
梢の脳裏に、高校の部室の窓から見えたグラウンドと、その先の昇降口がよみがえる。
土砂降りの中、背を丸めて走る男子生徒。
その背中に、傘を差し出すことも呼び止めることもできなかった自分。
――あれは、森本翔だったのか。
舟は低い橋の下に差し掛かり、乗客全員が頭を下げる。
ひやりとした橋の影を抜けると、空がぐっと近くなった。
その瞬間、ポツリと雨粒が落ちてくる。
梢は反射的にポケットの中のカセットケースを握った。
雨音とともに蘇るあの声――
「……ずっと、好きだった」
胸の奥で、何かが形になりかけている。
けれど、それはまだ、夕立前の空のように曖昧な色をしていた。
舟が乗り場に戻る頃には、雨は本降りになっていた。
傘を差しても濡れるほどの強い雨の中、梢は迷わず歩き出す。
行き先は決まっていた。
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紙袋の行方
第1週 『見えない鍵』
第2週 『名前のない約束』
第3週 『宿帳の余白』
第4週 『買い取ってない品』
第5週 『願いは誰のもの』
第6週 『二人で書いた誓い』
第7週 『割れた陶片の先』
第8週 『夕立ちの残響』


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