翌朝、港町は薄い雲に覆われていた。
南雲奈央は工房の戸締まりを済ませ、陶片を布に包み、胸の奥で何度も深呼吸を繰り返していた。
行き先は決まっている。十年以上、避けてきた道だ。
足を運べば、何かが変わる。あるいは、何も変わらないまま終わるかもしれない。
骨董市の老店主が教えてくれた路地は、意外なほど近かった。
細い通りを抜けると、木の引き戸とすりガラスの小さな看板――「南雲古道具店」。
引き戸の向こうから、かすかに器が触れ合う音がした。
戸を開けた瞬間、土の匂いに混じって、乾いた古木の香りが押し寄せる。
棚には、色褪せた陶器や錆びた真鍮、時間の層を纏った品々が並んでいる。
奥の作業台に腰掛けていた男が、顔を上げた。
「……奈央」
低い声。十年の距離を、一言で縮める響き。
奈央は言葉を飲み込み、代わりに包みを差し出した。
「これ、昨日の市で」
真は布を開き、陶片を手に取る。唐草模様に視線を這わせ、裏返す。
古新聞の手触りを確かめたあと、黙って作業台の引き出しから薄刃のヘラを取り出した。
「……剥がしてもいいか」
奈央は頷く。
ヘラの先が新聞の端に差し込まれ、糊の層がわずかに鳴く。
少しずつ持ち上がる紙。
下から現れたのは、茶色に変色したもう一枚の薄紙だった。
指先でそっと剥がすと、そこには鉛筆の線で子どもの字が書かれている。
――ごめん ななお
曲がりくねった平仮名は、不器用ながら一生懸命に書かれていた。
一瞬、時間が止まったように感じた。
記憶の底に沈んでいた光景が、唐突に浮かび上がる。
あの夏休み、兄と一緒に作った飯椀。
それを抱えたまま転び、縁が欠ける音。
目の前で兄が立ち上がり、「俺が落とした」と言った瞬間。
泣きそうな自分の頬に、汗が一筋流れた感覚まで、鮮やかに。
「……これ、覚えてる?」
真の声は静かだった。
奈央は紙片を持ったまま、小さく首を振る。
「……今、思い出した。割ったのは私だった」
真は何も言わず、ただ頷く。その頷きが、十年分の沈黙を溶かすように思えた。
「これ、なんで新聞で包んでたの?」
「……たまたま、あったからだ。北海道の市から流れてきた包み紙。特に意味はなかった」
そう答える声に、ほんのわずかな迷いが混じったのを、奈央は聞き逃さなかった。
二人の間に沈黙が落ちる。
外の風がすりガラスを揺らし、淡い光が紙片を照らす。
唐草模様と、鉛筆の文字と、北海道の新聞。
それらが、不思議な三角形を描いて見えた。
奈央は紙片を布に包み直し、胸に抱えた。
「……もう一度、形にしてもいい?」
真は少し笑って、「お前が作れ」とだけ言った。
店を出ると、海風が少し冷たく感じられた。
胸の奥にあった硬い欠片が、少し丸くなった気がした。
だが同時に、その欠片の向こうに、まだ見ぬ何かがある――そんな予感も、確かにあった。
next>> 第5話 ― 割れた陶片の先 ―
<< Previous 第3話 ― 兄の視点 ―
紙袋の行方
第1週 『見えない鍵』
第2週 『名前のない約束』
第3週 『宿帳の余白』
第4週 『買い取ってない品』
第5週 『願いは誰のもの』
第6週 『二人で書いた誓い』
第7週 『割れた陶片の先』


コメント