夜の高岡は、雨がやんでもしっとりと濡れていた。
秋山沙耶は、自宅の食卓に二枚の葉書を並べていた。
古道具屋で手に入れた“宛名を消された葉書”と、兄が持ってきた欠片。
擦られた跡がぴたりと重なり、一枚の葉書が静かに姿を現す。
兄・慎司は正面に座り、沈黙を保っていた。
「……全部、話して」
沙耶の声は震えていなかった。
慎司は深く息を吐き、言葉を探すように視線を落とす。
「届いたんだ。おまえ宛ての葉書が。差出人は……三浦久美」
沙耶の胸がざわめく。
「やっぱり……」
「当時、おまえは受験と家のゴタゴタで疲れてた。親は離婚寸前で……俺は、これ以上余計なことを背負わせたくなかった。だから、宛名を削った」
言葉が重く落ちた。
「守るために?」
「そうだ。俺には、それしかできなかった」
沙耶は唇を噛んだ。
守るために、奪う。
その矛盾が、胸を締め付けた。
机の上の葉書を手に取る。
削られた楕円の下に、わずかに残った鉛筆の線――「秋山沙耶」。
裏面の文章には、当時の久美の息づかいがまだ残っている。
――「町の色が薄くなった気がする」
沙耶は静かに言った。
「奪われたものは戻らない。でも……消されたからこそ、今こうして見つけた」
その瞬間、葉書の裏に小さな朱色の印が目に入った。
丸い水玉模様のスタンプ。
なぜか見覚えのある模様――そう、子どもの頃、沙耶が好きで集めていた便箋セットに押されていた印と同じ柄。
「……久美だ」
確信が胸に落ちる。差出人は、間違いなく彼女だった。
慎司は黙って頷き、ようやく肩の力を抜いた。
「すまなかった」
その謝罪は、十数年分の重みを帯びていた。
沙耶は葉書を両手で持ち、目を閉じた。
消えた宛名が、確かに自分を呼んでいたことを、今は信じられる。
窓の外では、雨上がりの夜空に星がひとつ輝き始めていた。
宛名を消された言葉は、時間を越えて、ようやく届いたのだ。
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紙袋の行方
第1週 『見えない鍵』
第2週 『名前のない約束』
第3週 『宿帳の余白』
第4週 『買い取ってない品』
第5週 『願いは誰のもの』
第6週 『二人で書いた誓い』
第7週 『割れた陶片の先』
第8週 『夕立ちの残響』
第9週 『消えた宛名』
第10週 『影送りの窓』


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