翌日、昼下がりの空は再び曇り始めていた。
秋山沙耶は役所を定時で抜けると、傘を手に郵便局近くの路地を歩いた。
兄からの沈黙の返事が、胸に鉛のように重く残っていたからだ。
真実を知るには、別の声を聞くしかない――そう思った。
目指したのは、町で長年郵便を配っていた老婦人の家だった。
子どもの頃、彼女の自転車の鈴の音を、毎朝の合図のように聞いていた記憶がある。
玄関先で声をかけると、しわの刻まれた顔に優しい笑みが浮かんだ。
「まあ、沙耶ちゃんかい。大きくなって……って、もう立派な役所の人やもんねえ」
「少し、伺いたいことがあって」
湯呑を出され、座卓に座る。部屋には古い配達鞄と、色褪せた帽子が丁寧に置かれていた。
沙耶は包んできた葉書を取り出した。
「これ、見覚えありますか?」
老婦人は拡大鏡を手に、宛名の擦り跡をじっと見つめる。
そして、しばらくしてから小さく頷いた。
「……覚えとるよ。確かに、この字、あの子のやね」
「あの子?」
「三浦久美ちゃん。あんたの同級生やったろ? 字が綺麗で、よく葉書を書いとった」
梢の心臓が強く脈打った。
やはり、あのときの差出人は久美だった。
「でも、どうして宛名が消えて……」
老婦人は首を振った。
「わたしは確かに局に届けたよ。秋山沙耶って、宛名もしっかり書かれてた。けど、局から先でどうなったかは……」
言葉を濁し、視線を落とす。
「ただひとつ覚えとるのは、あの時期はお家の中が大変そうやったってこと。お母さんとお父さんが、な」
沙耶は葉書を握りしめた。
宛名を消したのは兄だと知っている。
けれど、なぜ久美の気持ちを葬るようなことをしたのか、その理由がまだ見えない。
帰り際、老婦人が呟いた。
「届けるはずやった言葉が、宛名を失うのは辛いもんよ」
外に出ると、空から細かい雨が落ちてきた。
沙耶は傘を開かず、葉書を胸に抱えて歩いた。
消された宛名の向こうに、十七歳の夏の自分が確かにいる。
その記憶が今、静かに雨の中で輪郭を取り戻し始めていた。
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紙袋の行方
第1週 『見えない鍵』
第2週 『名前のない約束』
第3週 『宿帳の余白』
第4週 『買い取ってない品』
第5週 『願いは誰のもの』
第6週 『二人で書いた誓い』
第7週 『割れた陶片の先』
第8週 『夕立ちの残響』
第9週 『消えた宛名』


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