第3週『宿帳の余白』 第4話 ― 一行の違和感 ―

第3週『宿帳の余白』

午後、佳乃は台所で洗い物をしながら、思い切って女将に聞いてみた。

「昔、この宿でも……“名前を書かなかった人”って、いましたか?」

女将は一瞬だけ手を止め、それから静かにうなずいた。

「……いたねえ。もう10年以上前だけど、一人旅の若い女性だったよ。最初の夜は、きちんと記帳されててね。でも、翌朝になって見たら、名前が消えてたの」

「やっぱり……誰かが消したんですか?」

「たぶん、ご本人。跡が残ってたからね。名前だけ、きれいに擦れてた」

「理由は?」

「何も言わなかった。でも、部屋の机に置かれてたメモに、たった一行だけ、こうあったよ」

女将は布巾を絞りながら、記憶をたどるように言った。

「ここで過ごした時間は、“なかったこと”にしたいのです」

佳乃は、ぞくりと背中が震えるのを感じた。

「なかったことにしたい……」

「そう書いてあった。忘れたいのか、記録に残したくないのか、それとも誰かに知られたくなかったのかは、私にはわからなかったよ。でもね」

女将は言葉を区切って、佳乃を見た。

「人ってのは、“名前”よりも“名前を書かないこと”に、強い感情を込めることがあるんだろうね」

その言葉が、心の奥に響いた。

名前を書く=記録に残す。
名前を消す=記録から外す。

記録を残すことが「許し」や「証明」になるなら、
それを消すことは、赦しを与えない、あるいは受け取らないという意思表示かもしれない。

春日和也が残した、あの下書きのような言葉。

「僕はまた甘えてしまうから」

もしかして彼は、奥さんに対して“これ以上許されるわけにはいかない”と感じていたのではないか。

だからこそ、あの日の名前を、自分の手で消したのではないか。

佳乃は、見えない“行為の痕”に、ふたりの感情のかたちを想像していた。

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