午後、佳乃は食堂の窓際で帳簿の整理をしていた。
そこへ、宿の常連客である鶴巻さおりが声をかけてきた。
「今日はあのご夫婦、いらっしゃらないのね。今朝出て行くの、ちょうど見かけたけれど」
鶴巻は60代前半。ひとり旅が好きで、年に数回この宿に泊まりに来る。
いつも控えめで、おしゃべり好きというわけではないが、人の“気配の変化”にはとても敏感だった。
「はい。春日さんご夫妻ですね。あの……昨夜、何かお気づきになったことって、ありましたか?」
佳乃が尋ねると、鶴巻は少し目を細めて考えた。
「そうね……夜中に、一度だけ廊下で話し声がしたの。男の人の声だけだった気がするけど、何を話していたかまでは分からないわ」
「おふたりで喧嘩されていたとか……?」
「ううん、そうじゃなくて……“誰かに向けて話してる”って感じだった。少しだけ声を落としていてね。何か謝っていたような……そんな印象」
謝っていた? 佳乃の中で、何かが引っかかった。
「それ、春日さんが、ひとりで?」
「たぶん……でも不思議だったのよ。朝、奥さんの梨沙さんを見かけたとき、表情がすごく柔らかくて。まるで、なにかが“解けた”みたいに」
帳面の空白と、謝罪の声、そして翌朝の笑顔。
それぞれがまったく別の出来事のようでいて、
どこかでひとつにつながるような、不思議な違和感があった。
「もしかして……書かなかったんじゃなくて、消したんじゃないかしらね。名前を」
鶴巻のその一言に、佳乃ははっとする。
名前を“消す”。
それは、存在を否定するためではなく、
もしかすると──何かを“終わらせる”ための行動なのではないか。
書かれなかった名前の意味。
その空白の中に、誰かの“決意”のようなものが潜んでいる気がして、佳乃はぞくりと背筋が冷えるのを感じた。
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