松江の午後は、雲の切れ間から差す光がやわらかかった。
黒川美鈴は、相続したまま長らく手を付けてこなかった旧家の鍵を回し、重い引き戸を開けた。吸い込んだ空気は、乾いた畳の匂いと、長年閉め切られた木の匂いが混ざっている。靴を脱ぎ、土間から居間へ上がると、畳がわずかに鳴いた。
祖父母の代から受け継がれ、最後に父が一人で暮らし、そして――ある日、忽然と姿を消した家。
「黒川の家は風通しせにゃ、湿気に呑まれるよ」と隣の早苗に言われていたのを思い出し、まずは窓を開ける。雨戸をがらりと引くと、宍道湖からの風が細く入り、障子紙が呼吸を始めるみたいに揺れた。
掃除道具を広げ、箒を手に取る。畳の目に溜まった埃を掃き出し、廊下を拭き上げ、仏間の供物皿に積もった白い埃を払い落とした。
ふと、座敷の突き当たり――庭に面した腰高窓のところで手が止まる。
窓枠の外側、曇りガラスと格子の間に、何かが貼られている。古びたセロテープが黄変し、ところどころ剝がれかけている。
近づいて覗くと、それは写真だった。
横長のスナップの右半分だけ。
画面には、夕暮れの宍道湖が写っている。湖面は金色にも灰色にも見える中間の色で、遠くに黒い影のような岬がのび、空には薄い雲の層。写真の左半分は、鋭く断ち切られたまま失われている。誰かの肩口で途切れた影が、そこに「いたはず」を強く示していた。
美鈴はそっと指で写真の縁をなぞった。
紙は乾いて硬い。ところどころに擦り傷があり、角は丸くつぶれている。
――どうして、窓に。
窓枠には小さな画鋲の穴がいくつもあり、以前も何かが貼られていた形跡がある。写真の裏側を確かめようと、そっと内側の鍵を外し、格子を開いた。外気がふっと差し込む。
写真の裏には、薄い鉛筆の文字があった。
《かげおくり》
ひらがなで、ゆっくりと、慎重に書いた跡。
もう少し下に、小さく日付。「7/15」。年はない。
父の字ではない気がした。父の字はもっと角張っていて、迷いのない線だったから。
「影送り」――
小学校の頃、夕日に向かって自分の影を見つめ、消えるまで見送る遊びをした記憶がよみがえる。ここ松江でも、夕暮れの湖の堤で、友達と並んで影を踏み合った。
けれど、ここに貼られた半分の写真は、そんな無邪気な遊びというより、何かを「残して去る」ための印のように見えた。
廊下から足音がし、従兄の拓人が顔を出した。不動産の仕事をしていて、旧家のことを相談している相手だ。
「入っとったか。鍵、錆びてなかった?」
「回るには回ったけど、重かった。……これ、見て」
美鈴が窓を指差すと、拓人は眉を寄せた。
「写真? 右半分だけなんだな」
「裏に“かげおくり”って」
「……父さんのじゃなさそうだ」
「うん。おじさん――父は、こういう書き方はしない」
拓人は窓外の庭に目をやった。伸びた笹と、崩れかけた飛び石。
「おじさんがいなくなる少し前、ここに来たことがある。夕方だった。ここでしばらく立ってたよ、あの窓の前で」
「窓の前で?」
「うなずきながら、何かを確かめるみたいにね。声はかけなかった。……今思えば、かけるべきだったけど」
二人で黙って写真を見つめる。
窓越しの光を透かして見ると、湖面の粒子が細かく浮き出て、紙の繊維がきらりと光った。
半分だけの風景には、半分だけの時間が閉じ込められているように感じられる。もう半分に写っていたはずの誰かが、今も光の向こうに立っているような錯覚。
「もう少し、家の中を見てくるよ」
拓人が廊下に出ていく。床板がきしむ音が遠ざかり、家は再び静けさを取り戻した。
美鈴は写真を貼り直そうとして、テープの端をそっと持ち上げる。紙は窓ガラスに張り付いたままなかなか剝がれず、きゅう、と小さな音を立てた。無理はできない。角の一部だけ少し浮かせ、裏の文字をもう一度確かめる。
鉛筆の線の下に、さらに薄い押印の跡があることに気づいた。
消えかけたスタンプ。円の外周だけがかろうじて読み取れる。
――地名だ。
輪郭の上側に小さな活字。「……駅前」
下側のかすれは、ほとんど読めない。
目を凝らす。
「さ……ぽ……」
息を止め、もう一度角度を変える。
読めた気がした瞬間、風が吹いて障子がふるりと鳴り、影が文字をさらっていった。
「何か見つけた?」戻ってきた拓人が訊く。
美鈴は唇に指を当て、小さく首を振った。
「ううん。まだ断片だけ。……“影送り”って、誰が書いたんだろう」
「隣の早苗さんなら覚えがあるかもしれない。昔のこと、よう覚えとる人だから」
早苗の顔が浮かぶ。物干し竿を肩に担いで庭を横切る、あの小さな背中。
「あとで行ってみる」
掃除の続きをしながらも、視界の端ではずっと窓の写真がちらついた。
半分だけの風景が、家の中の空気に「もう半分」を呼び込もうとしているみたいだ。
箪笥の引き出しを開けると、底に薄い封筒が貼り付いているのを見つけた。乾いた糊を剥がし、封筒を取り出す。宛名のない白封筒。
中には、赤茶けた写真の断片が一枚。
――左肩。人の肩の線が、斜めに切れている。背景の粒子は、窓の写真とよく似ていた。
「……つながる」
思わず声が漏れる。封筒の断片と、窓の右半分。
光の向きを合わせれば、一枚の写真が戻るかもしれない。
縁側に座り、断片と窓の写真を目で重ねる。
湖面の波紋、遠景の岬の稜線、雲の筋。
合う。
合うのに、たった一つ、決定的にわからないものがある。
――切断された左側に「誰が」立っていたのか。
夕方が近づき、宍道湖からの風が少し冷たくなる。
美鈴は窓際に写真を戻し、剝がれかけたテープを押さえた。
その指先に、微かなざらつきが残る。スタンプの縁の、インクの粒。
「駅前……さ……ぽ……」
呟きは、畳に吸い込まれて消えた。
帰り際、玄関の引き戸を閉めようとして、壁に押しピンが一つ刺さっているのに気づく。
透明な頭の中央に、極小の黒点――印。
ピンを外し、裏返すと、そこにさらに細い鉛筆の文字があった。
《窓》
そして、その下に小さく《父》とだけ。
父の字ではない、柔らかな線。
喉の奥が熱くなる。
誰かがここで、父を、窓越しに「影送り」したのだ。
残したくなかったのではなく、消し方がわからなかった誰かが、半分だけ風景を残し、半分を切り取った。
そして窓という額縁の中に、「去る人の影」を貼り付けた。
日は落ちかけ、庭の草むらに橙色の影が伸びる。
美鈴は鍵をかけ、振り返らずに石畳を渡った。
足裏に伝わる湿りが、古い時間の残響を運ぶ。
最初に訪ねるべきは、やはり隣だ。
早苗は覚えているだろうか。父が去る前の夕暮れのことを。窓辺に立つ半身の影のことを。
そして、あのかすれたスタンプの「駅前」の後に続く地名を。
戸口に鍵をかけた瞬間、湖の方から風が吹き、家の中で障子が鳴った。
振り返ると、窓の半分の写真が夕日の色を拾い、失われた左側に、たしかに誰かの肩が続いている気がした。
目を凝らすと、それはもう光の粒にほどけていく。
影送りは、始まっているのだと思った。
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紙袋の行方
第1週 『見えない鍵』
第2週 『名前のない約束』
第3週 『宿帳の余白』
第4週 『買い取ってない品』
第5週 『願いは誰のもの』
第6週 『二人で書いた誓い』
第7週 『割れた陶片の先』
第8週 『夕立ちの残響』
第9週 『消えた宛名』
第10週 『影送りの窓』


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