夜の風は涼しかった。
秋山沙耶は、兄・慎司の待つ郵便局の事務棟に足を運んだ。日中の賑わいが嘘のように、建物の中は静まり返っている。時計の秒針と、奥の機械が低くうなる音だけが響いていた。
「こっちだ」
慎司は無言で奥の小部屋に案内した。机の上には伝票の束、その脇に分厚い帳簿が置かれている。だが、彼の視線はそこではなく、机の引き出しへと吸い寄せられていた。
「昨日の葉書のこと」
沙耶が切り出すと、慎司は眉をひそめ、黙ったまま煙草に火を点けた。
紫煙がゆっくりと漂い、沈黙が部屋を覆う。
「宛名、見たの。消されてる下に、私の名前が残ってた」
「……見間違いだろ」
「じゃあ、兄さんが持ってきた欠片は何? あれも偶然なの?」
慎司の手が震え、煙草の灰が机に落ちた。
「……おまえには関係ない」
「関係ない? 宛名は私だったんだよ!」
声が重なった瞬間、慎司は机を叩いた。
「だから言えなかったんだ!」
雷鳴のような声が、小部屋の壁に響いた。
沙耶は驚きつつも、視線を外さなかった。
「……あの頃、両親が毎晩喧嘩してただろ。離婚の話も出てた。おまえに余計なことを背負わせたくなかった」
慎司は深く息を吐き、視線を床に落とす。
「郵便物を預かったのは本当だ。差出人の字を見て……東京に行け、なんて無責任だと思った。だから宛名を削った」
沙耶の胸に冷たい痛みが走る。
――やはり、兄だった。
けれど同時に、彼の声の奥に、孤独と不安が滲んでいるのも分かった。
「守るために? 私から、言葉を奪って?」
沙耶の問いに、慎司は答えられないまま煙草を揉み消した。
窓の外では、雨上がりの夜風が木々を揺らしている。
二人の間に落ちた沈黙は、宛名を消した空白のように、重く深く広がっていた。
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紙袋の行方
第1週 『見えない鍵』
第2週 『名前のない約束』
第3週 『宿帳の余白』
第4週 『買い取ってない品』
第5週 『願いは誰のもの』
第6週 『二人で書いた誓い』
第7週 『割れた陶片の先』
第8週 『夕立ちの残響』
第9週 『消えた宛名』


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