森本翔の家は、商店街から少し外れた住宅街の奥にあった。
梢が門の前に立ったとき、雨はすでに道を白く煙らせるほど降っていた。
玄関の屋根から落ちる雨水の筋が、足元で小さな川を作っている。
インターホンを押すと、しばらくしてドアが開き、翔が傘も差さずに立っていた。
「……濡れるぞ」
「もう、十分濡れてる」
梢は苦笑し、鞄からカセットテープを取り出した。
透明ケース越しに見える磁気テープは、昨日よりも濃く重く見える。
「この声……やっぱり、翔くんでしょ」
翔はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと頷く。
「……俺だ。高校の文化祭用に録ったんだ。お前に、どうしても言いたくて」
雨音が玄関の屋根を叩く。梢は息をのんだ。
「でも、文化祭の前日に夕立で部室が浸水して……テープも濡れて、顧問から“使えない”って言われた」
「じゃあ、どうして残ってたの?」
「処分するとき、こっそり持ち出した。……使えなくても、消したくなかった」
翔は続けた。
「卒業して東京に出たあと、北海道の小樽に出張する機会があった。港町を歩いてたら、不思議とあの雨音を思い出して……“いつか小樽でまた”って、あの時付け足した」
「……だから最後に小樽って入ってたんだ」
「そう。だけど、お前に渡すタイミングを逃して、そのままになった」
梢はカセットを見下ろし、ゆっくりと微笑んだ。
「ありがとう。十年以上経っても、ちゃんと届いたよ」
翔は少し照れたように視線を逸らした。
雨はまだ激しく、空は夕暮れに近い色をしている。
「再生、してみる?」
翔の提案に、梢は頷いた。
二人は居間の隅にあったラジカセを引き寄せ、テープをセットする。
カチリ――雨音が流れる。
その中に、高校生の翔の声が混じる。
「……ずっと、好きだった」
わずかな間をおいて、笑いを含んだ吐息。
「いつか……小樽で、また」
雨音が部屋を満たす。
梢は目を閉じ、その声と音を胸に刻んだ。
遠くの港町の匂いが、湿った空気の中に混ざっている気がした。
再生が終わると、二人の間には言葉ではなく、雨の残響だけが残った。
梢は立ち上がり、玄関まで歩く。
外に出ると、雨は少しだけ弱まっていた。
「じゃあ……また」
翔がそう言ったとき、梢は振り返らずに小さく手を振った。
川沿いの道を歩きながら、梢は思った。
あの声も、あの雨も、あの日の自分も、全部もう過去のもの。
けれど、小樽という名前だけは、これからも心に残り続けるだろう。
『夕立ちの残響』 fin.
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