翌朝、佳乃は港まで荷物を届けに行く途中で、ひと組の見覚えある夫婦を見かけた。
春日和也と、妻・梨沙だった。
もう一便遅ければ会えなかっただろう。
ふたりはフェリー乗り場のベンチで、穏やかに話していた。
夫の和也が先に立ち上がり、手を伸ばす。
梨沙がそれを受け取り、しっかりと手を握り返す。
短い時間だったが、言葉が交わされずとも、何かを完了させるような空気が流れていた。
そのまま、和也は船に乗り込み、梨沙は岸に残った。
すれ違いざま、梨沙と目が合った。
「あ……先日は、お世話になりました」
「いえ、こちらこそ。お気をつけて」
少し迷ってから、佳乃は声をかけた。
「宿帳の件……2日目のお名前、記入されていなかったので、少し気になって」
梨沙は少し驚いた表情をしたが、すぐに笑みを浮かべた。
「……あれは、夫が自分で消したんだと思います」
「消した……んですね」
「はい。“この旅の2日目は、あくまで私の記録だけにしてほしい”って。たぶん、そういう意味だと思います」
その言葉のあとに続いた、わずかな沈黙。
佳乃は、それ以上、何も言わなかった。
梨沙はゆっくりと続けた。
「記録って、不思議ですよね。残すことで癒されることもあれば、残さないことで救われることもある。……私たちはきっと、後者だったんだと思います」
港を後にする背中は、どこか軽やかだった。
それは、赦しでも、決別でもない。
“名前を記さない”という選択がふたりにとっての、静かな終わり方だったのだろう。
その夜、佳乃は帳簿に“空白のページ”をそのまま閉じた。
そこに何も書かれていないことが、
確かに“何かがあった”証拠のように思えたからだ。
『宿帳の余白』fin.
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紙袋の行方
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第4週 『買い取ってない品』


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