午後、佳乃は台所で洗い物をしながら、思い切って女将に聞いてみた。
「昔、この宿でも……“名前を書かなかった人”って、いましたか?」
女将は一瞬だけ手を止め、それから静かにうなずいた。
「……いたねえ。もう10年以上前だけど、一人旅の若い女性だったよ。最初の夜は、きちんと記帳されててね。でも、翌朝になって見たら、名前が消えてたの」
「やっぱり……誰かが消したんですか?」
「たぶん、ご本人。跡が残ってたからね。名前だけ、きれいに擦れてた」
「理由は?」
「何も言わなかった。でも、部屋の机に置かれてたメモに、たった一行だけ、こうあったよ」
女将は布巾を絞りながら、記憶をたどるように言った。
「ここで過ごした時間は、“なかったこと”にしたいのです」
佳乃は、ぞくりと背中が震えるのを感じた。
「なかったことにしたい……」
「そう書いてあった。忘れたいのか、記録に残したくないのか、それとも誰かに知られたくなかったのかは、私にはわからなかったよ。でもね」
女将は言葉を区切って、佳乃を見た。
「人ってのは、“名前”よりも“名前を書かないこと”に、強い感情を込めることがあるんだろうね」
その言葉が、心の奥に響いた。
名前を書く=記録に残す。
名前を消す=記録から外す。
記録を残すことが「許し」や「証明」になるなら、
それを消すことは、赦しを与えない、あるいは受け取らないという意思表示かもしれない。
春日和也が残した、あの下書きのような言葉。
「僕はまた甘えてしまうから」
もしかして彼は、奥さんに対して“これ以上許されるわけにはいかない”と感じていたのではないか。
だからこそ、あの日の名前を、自分の手で消したのではないか。
佳乃は、見えない“行為の痕”に、ふたりの感情のかたちを想像していた。
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紙袋の行方
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第2週 『名前のない約束』
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