翌朝、佳乃は掃除当番を引き受け、春日夫妻が泊まっていた海側の二階部屋に入った。
部屋はきちんと片付けられていた。
布団も畳まれており、忘れ物もなさそうに見えた。
だが、窓辺の小さな机の上に、一冊のメモ帳が残されていた。
「……忘れ物?」
民宿ではよくあることだが、それでも確認のため手に取ってみると、中にはたった一枚、破られた跡があった。
他のページは白紙。文字が残っていたのは、裏移りした“下敷き状の跡”だけ。
斜めから光に透かすと、そこにはかろうじて読める文字があった。
「これで、最後にしよう。
あなたがこれ以上、私に“許される場所”を残してしまうと、
僕はまた甘えてしまうから」
丁寧な筆跡。
書いたのは──春日和也、だろうか。
「“許される場所”……」
その言葉が、佳乃の胸に妙に引っかかった。
それは謝罪ではない。
懺悔でもない。
もっと静かな、でも深い“感情の仕舞い方”のようだった。
窓の外を眺めると、穏やかな海が広がっていた。
昨日、女将が言っていた。
「春日さんたち、2日目はほとんど部屋にこもって海を眺めていたみたいですよ」
名前のない宿帳の記録。
言葉を残さなかったメモ。
静かすぎる夫婦の2日目。
それでも、その時間には何かがあった。
ふたりは同じ景色を見ていた。けれど、感じていたものは、まったく別のものだったのかもしれない。
そして、それが「名前を消す」という選択につながったのだとしたら──。
佳乃は、記録というものが、いつも“事実”を正確に映すとは限らないことを知った。
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