翌朝、宍道湖の水面は霧に覆われていた。
湖面から立ちのぼる白い靄が、町全体を薄い膜のように包み込む。
美鈴は傘を手に、隣家の早苗のもとを訪れた。
引き戸を開けると、早苗は縁側で洗濯物を畳んでいた。
小柄な体に割烹着をまとい、白髪をきちんとまとめている。
「まあ、美鈴ちゃん。来ると思っとったよ」
「……お話を伺いたくて」
「はいはい、上がっておいで。お茶入れるけえ」
湯呑を手にしたところで、美鈴は窓の写真のことを切り出した。
「父が残した写真を見つけました。宍道湖の夕暮れが写った半分の写真で、裏に“影送り”って書かれていました」
早苗の手が一瞬止まった。
「やっぱり、あの窓のことを気にしとるんじゃね」
「ご存じなんですか?」
「……ええ。お父さんがいなくなる前の晩、私、見たんよ。湖の方を向いて立っとる背中を」
早苗の目は、霧の奥を見つめるように遠くなった。
「夕陽に向かってじっと立って、自分の影を見送るようにしてた。子どもの頃、影送りをやったことがあるんじゃろ? 影が消えるまで空を見上げて……あれと同じように」
美鈴は頷いた。確かに、幼い頃、友達と一緒に夕陽に向かって影を消す遊びをしたことがあった。
「けどね、美鈴ちゃん。あの人の横には、もう一つ影があったんよ」
「……もう一つ?」
「ええ。はっきりとは見えんかった。女の人のように見えたけど……声は聞こえんかった。ただ、二つの影が並んで揺れてて、気づいたら片方がすっと消えた」
美鈴の胸に冷たいものが走った。
父の隣に、誰かがいた――。
昨日見つけた左側の写真の断片。そこに写っていた「誰か」の肩。
それは、父と一緒に“影送り”をした人なのかもしれない。
早苗は言葉を続けた。
「次の日には、あんたのお父さんは見つからんようになった。……湖に沈んだという人もいたけど、私はそうは思わん。あれは、影を残して、どこかへ行った人の背中やった」
帰り道、霧はまだ晴れていなかった。
湖面に映る影はぼやけ、歩く自分の足元さえ曖昧に見えた。
美鈴はポケットに手を入れ、写真の断片を確かめた。
――もう一つの影。
それを知ることが、父の「消えた理由」に近づくことなのかもしれない。
胸の奥でざわめく感覚を抱えながら、美鈴は旧家へと歩を速めた。
窓に貼られた半分の写真が、今日も自分を待っている気がした。
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紙袋の行方
第1週 『見えない鍵』
第2週 『名前のない約束』
第3週 『宿帳の余白』
第4週 『買い取ってない品』
第5週 『願いは誰のもの』
第6週 『二人で書いた誓い』
第7週 『割れた陶片の先』
第8週 『夕立ちの残響』
第9週 『消えた宛名』
第10週 『影送りの窓』


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